想いよ届け。すべての謎が解かれる前に。
単行本のオビより
松尾由美先生の小説「煙とサクランボ」のタイトルは、この本の第3章で説かれるように、見ることはできるがしっかりした形のないタバコの「煙」に象徴される幽霊紳士氏と、瑞々しく美しい「サクランボ」のような女会社員さんを示しています。さらに、タバコの煙とサクランボ、共通点は昔ながらのバーにふさわしいことだけと語られる、バーを体現するバーテンダー氏、ワトソン役を務める彼も含めた三人の物語がこの小説です。
この小説の幽霊には独自の設定がありまして、
- 幽霊になるのは、なにかの思い残りがある者だけ
- 思い残りが解消されると、その幽霊は消失してしまう
- 幽霊本人の死を知る知人縁者には幽霊の姿を見ることはできない。何も知らない赤の他人だけが幽霊の姿をそれと知らずに見ることができる。
と、言ったところが主なところです。他にも、行動可能範囲が決まっていたり、腕力が乏しかったり、昔話の幽霊のように必要な時に化けて出現するのではなく、常に姿があって文字通り彷徨い続けなくてはいけなかったりして、このあたりの幽霊生活リポートもユーモラスに描かれています。
さて、この小説の主題となるのは、女会社員さんが幽霊紳士氏とバーテンダー氏に語る、かつての彼女の家に起きた放火事件の謎です。そもそも、幽霊紳士氏と女会社員さんには何か縁があるとほのめかされており、それがどうやら幽霊になる条件である「思い残り」にも関連しているようでもあります。いったいそれはどう結びつくのでしょう? また、その結びつき・因縁を明らかにすることは、幽霊紳士氏が自らの死を公開し、また思い残りを解消することにもつながります。つまり、幽霊紳士氏が女会社員さんの前からいずれ姿を消さざるを得ないことは明らかであり、それが、オビの売り文句である想いよ届け。すべての謎が解かれる前に。
となるわけです。
このように、何かの秘密を抱えた人が、何とかそれを愛する人に分かってもらう、これは「わたしのリミット」と同じで、ただ、「煙」は秘密を抱えた側から、「リミット」は秘密を知らされる側から見た物語であることが違う点です。つらいこと、信じがたいことには、ただその事実を告げられるのではなく、自らによる思考を重ねてこそ受け入れられやすい、というのが「リミット」における主張です。それと同じように幽霊紳士氏は、自らの罪の告白に、ストレートな告白という形をとらずに、推理の形をとって一歩ずつ手を引くように真実へと導く形をとります。
また、この物語は幽霊紳士氏と女会社員さん、バーテンダー氏の三角関係を巡るものでもあるのですが、幽霊紳士氏は偏頗な部分も抱えた人であるにも関わらず、女会社員さんもバーテンダー氏も*1幽霊紳士氏のことが大好きすぎるほどで、二人とも父親を亡くしているだけに、ファザコンが入っているのではと邪推までしていますが、事件はともかく人間関係が暖かいだけに安らかに読むことができる物語になっていると、思います。
主要登場人物一覧
- 炭津(すみづ):幽霊である紳士。名乗りの由来は、英語でありふれた名前の代表とされる「スミス」をもじったもの。
- 立石晴奈(たていしはるな):漫画家兼業の会社員。放火事件の当事者。
- 柳井(やない):バーテンダー、一人店主。幽霊を見てそれと捉える能力の持ち主。
- 高田(たかだ):炭津の幽霊としての先輩。生前は銭湯の主人。
- 綿貫(わたぬき):出版社勤務。かつて、炭津をアルバイトとして雇っていた。
- 西島(にしじま):「立石家の恩人」。晴奈の父の身代わりとなって交通事故で亡くなる。
余談
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