ガラスの動物たち

 加納朋子先生の「ガラスの麒麟」から始めて、そういえば題名だけ知っていて中身も何も知らないな、と高木敏子先生の「ガラスのうさぎ」を読み、ついでと言っては何ながら、題名が「ガラスの(動物名)」となっているものとして、新堂冬樹先生の「硝子の鳥」・北方謙三先生の「ガラスの獅子」を読んだ。「ガラスの動物園」なるものもあるそうだし、動物に限っても「ガラスのナントカ」というタイトルのものはほかにもあるだろう。動物に限らなければ、それこそ「ガラスの仮面」をはじめとしていくらでも出てくることだろう。

 これほどタイトルに「ガラス」と付いたものが多いのは、やはりガラスというのが象徴的な物質だからだろう。まずは透明であること、次点以下として、いろいろな形のものが作れ、美しく、かつ、宝石に比べれば安価で時には似せものという印象までつきまとうモノである。

 そう思って振り返ると、意外なことに、この四作、それぞれガラスに持たせた象徴的な意味が異なる。

 「麒麟」では、透明ではかない、若い女性の心理を象徴している。

 「うさぎ」は、この中で唯一、著者の家に飾られていた現実の置物のことである。とはいえ、それが空襲によって半分融けてしまったのが、家庭の崩壊を象徴しているといえる。熱によって融ける、それもまた、ガラスの性質である。

 「鳥」は透明で周りのどんな色にも合わせて羽ばたく、主人公である美女潜入捜査官を象徴し、最後に砕ける。

 「獅子」もまた、美事なことを表しているが、最後には毀れてしまう。

 おそらく、ほかの作品ではまた別のイメージをガラスから引き出していることだろう。象徴と一言で言っても面白いものである。