三訪竜王城(その一)

 ふぁささささささーーー。
 爽やかさを感じさせたのも一瞬、風が吹き過ぎると、葦の繁茂する砂州に初夏の熱気は悠然としてあった。
 「暑いのじゃ…」
 目の前に広がる海から目をそらさないようにしながら、竜王のひ孫・リュオは立っているだけなのに額からにじみ出す汗をぬぐった。こうやって汗をぬぐえるのも今のうちだけ、そう思うとリュオはげんなりした。竜王ゆかりの者としての威厳を保ちつつ、ロトの子孫たちを篤く出迎える、この二律背反の解決法をリュオは見つけたつもりだったが、その方策は間違っていたのではないか? 迷いが湧いてくるのを首を振って払拭する。
 対岸には、王都ラダトームの街が鈍い色にうずくまっているのが見える。
 また、ひとしきり風が吹いた。
 緑の葦原を渡る薄い色の波打ちは、そのまま海に飛び込んで本物の白波へと変わった。アレフガルドの内海は、今日も穏やかにたゆたっている。
 だが、港と港を渡る商人たちの大船も、魚を漁る漁師たちの軽快な小舟も、貴族たちや富豪たちの豪勢な遊び船もない、人間の営みというものが一切見えないこの海の平穏さは偽りのものに過ぎないことをリュオは知っていた。大神官ハーゴンが戦乱を世界にもたらしたその時に、海もまた、隙があれば船を沈め人を喰らおうと狙う怪物たちが、水面の下と空の果てに潜む危険な場所に姿を変えたのであった。
 だが、その海にあえて乗り出すものたちもいる。
 その一隻が、リュオの視界に姿を現した。船は、彼女の立つ方へと向かってくる。
 「やっと、じゃな」リュオはひとりごちた。
 と、その船がなにかにつまづいたかのような動きを見せた。何か白っぽいぶよぶよしたものが船べりにたかっている。巨大クラゲだろうか? 人を動けなくするほどの毒刺を備え集団で襲いかかってくるそれらは海の怪物たちの雑兵だ。だが、光が閃いたかと思うと何匹かが力尽きたようにばらばらと船べりからはがれおちていった。閃熱(ギラ系の)呪文だ! リュオはその呪文が得意なサマルトリア出身の若者の顔を思い浮かべた。白い影はさらにつぎつぎと姿を消していく。
 広い海に一隻だけ浮かぶその船は、足枷が外れたかのようにまたすぐにしっかりした動きを取り戻した。
 ロトの子孫たちが、みたび竜王城にやってきたのだ。

 間もなくリュオの眼前に碇泊した船から、三つの人影を乗せて短艇が下りた。頃合いじゃろうか? リュオはさっと被ると、待機していた繁みの中から抜け出した。抜け出してみると、リュオの背よりもある葦の丈高さが気になった。儂がここに出迎えておることが分かるじゃろうか? 手ぐらい振った方がいいじゃろうか? いやそれは軽薄な。いっそ大声出して呼ぶか……あ、口は利かないことにしておるんじゃった……。うろうろと悩むうちに短艇の方がリュオを認めたらしかった。舳先に立つ背の高い人物が、こちらを指さしている。短艇も向きを微修正した。それはいいのだが、随分と速くはないか? まるで水面を走るようにこちらへ向かってくる。
 リュオが目を丸くして見ているうちに、短艇は勢い任せに岸に乗り上げた。そのまま、弾かれたように一人突っ走ってくる。身に纏った鎧兜が、無茶な動きに抗議を挙げるように荒音を立てている。まさか……リュオは悪寒が背を登ってくるのを感じた。悪ふざけが過ぎたのだろうか? 戦士は、悪鬼のごとく鉄槌を振り上げてまさに迫ろうとしていた。リュオは、用意の石板を前に突き出すと相手に分かるよう必死で指さした。靴から土煙を上げて、戦士が急停止する。眉庇を上げると、ローレシアの王子ロウガの、意外なほど幼い顔が現れた。石板に書かれた文字を読み上げる。
 「ええと……か・ん・げ・い、か。何、お前?」
 取り残されていた二人が駆け足でやっと追い付いてきた。二人とも汗をかき息を切らしている。
 後ろにいた頭巾の少女・ムーンブルクのムラサキが疑問を呈した。
 「いったい……ハァハァ……ロウガ、あんた先行ったくせに……ハァハァ……まだ、倒してないってどういうことよ!」
 と、バシッと杖をリュオに突きつけた。
 「いや、だからこのちびドラが……」
 「ドラゴンなら倒しなさいよ。それともあたしがやる?」
 物騒な話になっている。リュオは後悔した。そう、丁寧に海岸まで出迎える、ただしリュオ自身ではなく部下が、という形をとるためにリュオはドラゴンの着ぐるみを着てきたのであった。しかし、すっかりハーゴン配下の危険な怪物と捉えられてしまったようだ。とはいえ、ここで言いわけをして声から正体がばれては元も子もない。
 リュオは石板を二人にも向けると、「歓迎」の文字を手振りで強調した。
 「ふむふむ、成程」
 今まで口を開いていなかった三人目、サマルトリアのサスケがロウガとムラサキに振り返った。
 「竜王城から出迎えにきてくれたようです」
 「そうなの?」
 そのとおりそのとおり、流石じゃ。リュオはぶんぶんと首を(というか、着ぐるみの頭部を)縦に振った。
 「案内する」石板に白墨でそう書くと、今度は三人とも素直にリュオの後ろに立って歩き始めた。
 「あのー、ところで」
 サスケ殿、いったいなんじゃろ? 石板に疑問符を書きこんで、リュオは振り向いた。動きづらいので、全身の向きを変えなくてはいけないのが大変である。
 「変わった外出着ですね、リュオさん」
 干潟はただでさえ足場が悪い。リュオは思いっきりずっこけた。
 「大丈夫ですかっ?」
 ぐいっと上体が引き起こされる。激しい動きに軽く目が回ったその一瞬に、止める間もなく着ぐるみの頭部が脱がされていた。陽光と草いきれが顔に押し寄せる。
 「ほら、鼻に泥が」
 気がついた時は、ハンカチで鼻を拭かれていた。そして、そのハンカチを握る人もすぐ隣に……。
 「ちょ、ちょっと顔が近いのじゃ」
 「あ、失礼……。妹と同じ調子でやってしまいました」
 サスケはすぐ身を引いた。それを紳士的な、と感心しつつも、ちょっと残念な気持ちが湧いたのにリュオは驚いた。これはどういうことじゃろう? 蒸せる着ぐるみの中にいたせいか、頬が妙に熱い。
 「さ、さあ行くのじゃ。こっちがいい道なのじゃ」
 返事も待たず、リュオはロトの子孫たち三人に背を向けて歩きだした。