月の10日を「とうか」、20日を「はつか」と呼ぶように、30日は「みそか」とも言い、転じて月の末日のこともそう呼ぶ。そして大まとめの年末は「大みそか」だ。
しかし思えば、かつての旧暦(太陰太陽暦)では月の日数は29日か30日に決まっており、31日というのはあり得ない、馬鹿げているとしか聞こえない日付だった。そんな江戸時代までの人間に、12月31日は大晦日だと言ったら、SF的に聞こえるのだろうな、とふと気づいた。
DC星のくず (@DC306DC) / Twitterさんが提唱したtwitterタグ #いやらしいわねムーンちゃん にインスパイアされたもの。うちの子でやるとお色気から外れてしまうのだ。
「いやらしいわね」ムーンブルクのムラサキが、眉間に寄せた皺で整った顔を乱しながら、ぼそりと毒づいた。
今、彼らロトの子孫三人は、竜王のひ孫リュオに見送られて、半ば彼らの拠点となった感もある、竜王の地下宮殿から出発するところである。
真っ先に宮殿を離れて先頭に立ったのが彼女ムラサキ、駆け足で追いついてきたのがローレシアのロウガ、最後尾でひ孫に会釈しているのがサマルトリアのサスケで、ひ孫のリュオは一抹の不安を笑顔に隠して、小さく片手を振っている。
「いやらしいって、何が?」ロウガは耳ざとく聞きつけると、遠慮なくちょっと歳上の従姉に尋ねた。振り反って見るリュオの服装は、いつもの手足の先まで慎み深く覆い隠す紺色の長衣で、従姉の言うことは毎度ながらよくわからない。
リュオの姿は早や小さくなり、地上へと上る彼らの陰から消えようとしている。
「ああやってしつこく見送ることで、あたしたちが真剣にハーゴンに立ち向かうよう迫っているのよ!」
考えすぎじゃないか? ロウガはそう思った。流石の彼もそれを口にはしなかったが。
まずモーリス・センダックの「かいじゅうたちのいるところ」へのオマージュを作ろうというのがまずあって、「かいじゅう(モーリス)」と絡む不思議さん美少女芽理沙が現れ、彼女とモーリスとに出会う年上の一般人少女信乃が配されて、ひと夏のガールミーツガールの物語を描こう、となったのだと思う。
ただ、希死少女芽理沙と人間の死体を食う*1モーリスの特性を発揮する上で、人が死ぬ事件が必要だったからそういう事件が作中に設けられたわけで、クローズドサークルにしては人物が多過ぎではないかとか、動機や背景があっさりというかおざなりなのはそういう面があるのではないか。
そして、最後、モーリスはいなくなり、芽理沙はからだに大きな痛みを受け、母を取り戻し、そして海外へ去る。これは誕生のやり直しではないかと思う。けっして連絡が取れないわけではないのに、関係が途切れてしまったことにしたこととか、構成はあんまりうまくないと思う。そのあたり、「わたしのリミット」は「モーリスのいた夏」の反省を踏まえて上手く組んだものだと思う。
杖立てに入って立っている「竜王の杖」と、彼(?)の話を聞いているロトの子孫三人組。
杖「この古傷は、竜王様とロトの勇者との決戦の折、ロトの剣をわが身で受け止めた時のもので云々」
ロウガ「木でできているのに切られなかったって、お前すげーな!!」
物陰で話を耳にしているリュオ「お前はお父様の作られた二代目竜王の杖なのに
……」
あの杖、イラストでは、ノリで、何か意志もって話せそうな雰囲気で描いているけど、本編ではただの物体、のはず。
リュオは脚は丈夫なのにいつも杖を持ち歩いているので、まるで「ライナスの毛布」みたいだと、故郷のぬいぐるみを連れて歩いている幼児を率直に連想しているのが、ロウガあたりではないかと思う。